2015年3月20日金曜日

『帝国の慰安婦』における証言者の“水増し”について

 『帝国の慰安婦』の特徴の一つは、1973年に刊行された千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発−−従軍慰安婦』(双葉社。講談社文庫のタイトルは『従軍慰安婦』。以下それぞれ双葉版、文庫版と表記)を高く評価し、また大きく依拠している点にある。例えば朴裕河氏は「そしてこのような千田の視点は、その後に出たどの研究よりも、『慰安婦』の本質を正確に突いたものだった」(25ページ)とし、「千田の本が朝鮮人慰安婦の悲劇に対して贖罪意識を持ちながらも、それなりに慰安婦の全体像を描けたのは、彼がそのような時代的な拘束から自由だったからだろう」(26ページ)としている。「そのような時代的な拘束」とは、彼女によれば、「慰安婦」問題の発生以降「慰安婦」についての発言が「発話者自身が拠って立つ現実政治の姿勢表明になったこと」を指す。このことを踏まえて、次の一節をお読みいただきたい。
 千田の本には一九七〇年代初め、今から四〇年も前に韓国にまで来て見つけた朝鮮人慰安婦たちのインタビューも入っている。つまりこの本には、現在私たちの前にいる元慰安婦たちより四〇歳も若い元慰安婦が登場して、自分の体験を生の声で語っているのである。 (26ページ)
 読者は当然、『“声なき女”八万人の告発−−従軍慰安婦』には複数の元「慰安婦」のインタビューが収録されており、そこでの元「慰安婦」たちの「声」こそ『帝国の慰安婦』が「ひたすら耳を澄ませ」ようとした(10ページ)と称する「声」の原型になっているであろうことを想定されるだろう。あるいは千田が聞き取った元「慰安婦」たちの声が『帝国の慰安婦』の主要なテーゼを支持するものであろう、と。巻末の参考文献で挙げられている千田氏の著作は『“声なき女”八万人の告発−−従軍慰安婦』ただ一つであるので、「千田の本」とはこの本を指すと考えるほかない。

 しかし驚くべきことに、双葉版115ページ、文庫版142ページにはこう書かれているのである。「韓国の或るジャーナリストの紹介で会った彼女は、朝鮮半島で私が会えた、たった一人の元慰安婦と名のる女性であった」、と(強調引用者)。もっとも、千田氏がたった一人の女性しか取材できなかったというわけではない。そのあたりの事情はこう説明されている。
 ところが、そこで知ったのは、この国で慰安婦にされた女性のことは“挺身隊”とよばれ、その体験者たちは、いずれも牡蠣のように口が固いのであった。何人かをやっと探し出してもなかなか語ってくれないのであった。そしてその何人目かに会い終わったとき知ったのは、彼女らがそれを極めて恥にしていること、口を閉じ語りたがらぬのは、その恥辱感のためであるということだった。恥辱、言われてみればその通りであった。誰が慰安婦にさせられた過去の傷痕をとくとくと語る者がいようか。(双葉版101ページ、文庫版126ページ、原文のルビを省略)
 少なくとも複数の元「慰安婦」に会ったことは事実じゃないか、と思われるだろうか? そのすぐ後で、千田氏は二人の韓国人女性にインタビューしているではないか、と思われるだろうか? だがここで考慮しておかねばならないのは、これが「挺身隊=慰安婦」と認識されていた韓国社会での人探しだった、という点である。千田氏が「慰安婦だった人を知りませんか?」と訪ね歩いたとき、労務動員された人を紹介されることは十分あり得た。「挺身隊」と「慰安婦」との混同がなぜ生じたかについての憶測を述べている(62ページ)朴裕河氏は、当然この可能性を想定しなければならなかったはずである。沈黙こそ元「慰安婦」であった証、と考えるのは早計である。「挺身隊=慰安婦」という混同によって労務動員された女性たちが偏見にさらされていたのだとすると、「誤解を解くためにしゃべる」ことより「とにかく注目されるのを避ける」ことを選ぶのは、十分にありうることと言わねばならない。

 双葉版101ページ以降、文庫版126ページ以降で紹介されている二人の韓国人女性が仮に元「慰安婦」だったとしても、さらなる問題がある。その二人が証言しているのは(当然ながら)自らの「慰安婦」体験などではなく、「未婚の若い女性」が「金になる仕事がある」などといった勧誘に応じてついていくのを見た、という目撃談なのである。『帝国の慰安婦』では47ページでその発言が引用されているが、なにしろ「私自身は行かなかったが」と断って話しているのであるから、彼女自身の応募体験として話しているのでないことは明らかである。彼女らが目撃した女性たちが実際に「慰安婦」にされたという確証もない。二人の女性が元「慰安婦」であろうがなかろうが、彼女らの証言は「元慰安婦が登場して、自分の体験を生の声で語っている」と称し得るようなものでないことは明白だろう。さらに言えば、二人の女性のうち一人については「同じような事を語っていた」とされているだけで、「生の声」など紹介されてはいない。

 では残るたった一人の元「慰安婦」の女性は千田氏になにを語ったのだろうか? 二人のやりとりを全文引用してみよう。双葉版115-117ページ、文庫版142-144ページ、原文の傍点を下線に改めた。
「昭和十八年からはじまった挺身隊で行かれたのですか」 「私はその前です。日本の昭和十五年に行きました」 「警官とか面長が誘いに来たのですか」 「面長は来ませんでした」 「すると来たのは警官ですね」 「日本人の男の人も来ました。その人にすすめられたのです」  口数も言葉も少ない女性であった。いかにも喋りたくないのが肌につたわってくるような女性であった。場所はソウル市のはずれ、山坂の上まで小さな家が段々に建て込んでいる難民集落風の所であった。 「出身の村はどちらです?」 「………」
 ここから彼女の沈黙がはじまるのだった。通訳の労をとってくれたジャーナリストがいくら聞いてくれても駄目であった。石になってしまうのだった。だが考えてみると、それは当然であった。今さら村に帰れる体ではない者に、村の名をあかすよう求める方が滑稽なものではなかったか。 「どの辺の戦場に行ったのですか?」 「シナです」  ここでやっと答えてくれたが、中国をシナと呼ぶとき彼女はやはり、過去の中から今も抜け出せずにいるのだろうか。 「中国の、いえ、シナのどこです」 「あちこちです」 「具体的な地名を教えてくれませんか。それと同行した部隊の名前も教えてください」 「………」  またも沈黙であった。 「辛いことがありましたか。もっとも辛いことばかりだったでしょうが……」 「………」 「親切な兵隊も中にはいなかったのですか」 「………」 「帰国したのは何年でしたか」 「………」  私はノートを閉じた。もう質問をやめた。小屋を辞した。坂道を下りながら韓国人ジャーナリストが言うのだった。 「せっかく案内しながら役にたたなかったようですね。すみませんでした。もう少し時間を下さったらまた探してみます」 「いえもう沢山です。人間において沈黙の持つ意味は雄弁より重く大きいことを、しみじみ、悟らされました。彼女はいまなにをしているのでしょうか」 「隣近所の雑用を手伝って生活しているようです」
 かろうじて答えているのも「慰安婦」になった時期、誘いに来た人間、「慰安所」のあった地域だけであり、「慰安所」での生活についてはひとこともしゃべっていない。特に「親切な兵隊も中にはいなかったのですか」という問いに沈黙で応えている点に注目されたい。というのも、「親切な兵隊」についての「記憶」は『帝国の慰安婦』が強調しようとする事柄の一つだからである。

 もちろん千田氏が考えたように、女性の沈黙それ自体を「声」として聞くべきだということはできるだろう。しかしだからといって、「千田の本」では複数の「元慰安婦が登場して、自分の体験を生の声で語っている」と言うことができるかといえば、明らかに否である。数少ない証言も『帝国の慰安婦』のテーゼをむしろ反駁するような内容になっていると言えよう。双葉版101ページ、文庫版126ページにおける女性の目撃証言を就労詐欺による「慰安婦」集めの事例と考えるのであれば(千田氏はそう考えている)、「応募は未婚の若い女性に限られていました」という証言は朴裕河氏の主張に対する反証例ということになるだろう。

 研究者ならばともかく、一般の読者の場合、引用されている文献、参照されている文献にいちいちあたってみることまではしない、というのがふつうではないだろうか。それは市民が専門家に対して寄せる信頼の現れであろうし、また専門家の側はそうした信頼を裏切らないよう努めるはずである。千田氏が聞き取りをした「慰安婦」たちの「生の声」が『帝国の慰安婦』のテーゼを支えているのだ、と信じて同書を読んだ読者はその信頼を裏切られていると言わざるを得ない。

 なお朴裕河氏が千田氏の記述を誤読してありもしない写真を生み出してしまった事例についてはこちらの記事を、また(恐らくは)原史料にきちんと当たらなかったがゆえに「慰安婦」の年齢について大きく読者をミスリードする記述をしている点についてはこちらの記事を、それぞれ参照されたい。

(文責:能川 元一)

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