2015年3月21日土曜日

朴裕河『帝国の慰安婦』読書会報告(1)

15年2月17日に当会が開催した、朴裕河『帝国の慰安婦』についての読書会では、金富子氏(植民地朝鮮ジェンダー研究)による報告に続いて参加者による意見交換が行なわれた。主な意見を主題ごとに再構成し、2回に分けて紹介する。また、当日は『帝国の慰安婦』の内容以外に同書が受容される日本の文脈(金富子氏の報告でも問題にされている)についても参加者の関心が集まった。この点については過去の記事「日本軍「慰安婦」問題の現在と『帝国の慰安婦』」をご参照いただきたい。 1. 方法論上の問題と先行研究の軽視  著者の朴裕河氏は『帝国の慰安婦』において「『朝鮮人慰安婦として声をあげた女性たちの声にひたすら耳を澄ませること」を目指したとしており、自分が紹介する「声」が支援運動によって隠蔽されてきたとしている。日本において『帝国の慰安婦』が好意的に受けいれられている理由の一つもそのような「声」が新鮮なものと思われたからではないかと思われる。しかし、そうだとするなら、著者がそうした「声」を資料から再構成する際の方法の妥当性がきちんと吟味されなければならないはずだ。  まず金富子氏の報告において「植民地期朝鮮や朝鮮人「慰安婦」への事実関係に関する研究の蓄積をふまえず」「膨大な歴史研究の成果を軽視」とされている点については、次のような具体例が指摘された。本書で強調されている「いい日本兵との交流」や「朝鮮人業者の介在」などは日本軍「慰安婦」問題に関わってきた人間にとっては既知のことがらであり、ことさら強調してはこなかったにしても語られてきたことは、これまでに支援者や研究者が刊行した文献をみればわかることである。さらに言えば日本の右派が好んで強調してきたことでもある。こうした事実を無視して自らの「慰安婦」像を提示することは、読者をミスリードするのではないか、と。    次に金富子氏の報告において「不明確で恣意的な根拠・出典、引用のずさんさ」などと指摘されている点については、次のような意見が出た。歴史学ではなく著者の専門である文学研究の基準に照らしても、『帝国の慰安婦』におけるテクストの扱い方は素朴すぎるのではないか。特に、日本人男性である千田夏光が同じく男性である元軍人や「慰安所」業者から聞き取った「慰安婦」の姿、あるいは日本人男性作家が描いた「慰安婦」の姿から「慰安婦の声」を再構成する作業には、これら(日本人)男性のバイアスを考慮に入れることが不可欠であるはずだが、十分な見当がなされているとは思えない、と。    また例えば24ページで言及されている「写真」の解釈についても、中国人が「蔑みの目」で「慰安婦」を見ているという千田夏光氏の推測を無批判に踏襲しているが、写真からは「蔑みの目」であることが自明とはとても思えない、という指摘もあった。  その他、「なでしこアクション」への過大な注目に見るように、日本の右派の動向の把握が不十分かつ間違いがある、90年代の右派の動きを無視している、との指摘もあった。 2. 支援運動・支援者への批判について  本書では「慰安婦」支援運動の日本軍「慰安婦」問題認識について、「慰安婦問題を単に『戦争』の問題として認識した」(211)、「同時代の戦争と連携して『普遍的人権問題』として訴えた」(171)とする。こうした捉え方が「植民地」の問題を隠蔽したというのが本書の中心的な主張であるように思われる。だが、その「隠蔽」についての具体的な論証がないため、植民地支配の歴史を当然視野に入れて日本軍「慰安婦」問題を考えてきた参加者達は困惑せざるを得なかった。  さらに、著者は前記のように支援運動を批判する一方で、「『慰安』というシステムが、根本的には女性の人権に関わる問題」(201)であるとか、「植民地だったことが、最初から朝鮮人女性が慰安婦の中に多かった理由だったのではない」(137、なお53-54、149も参照)などとも主張している。はたして本書から首尾一貫した日本軍「慰安所」制度についての理解を得ることができるのか疑問である。この事例がよく表しているように、本書では頻繁に対立する主張が並列されているので論旨が極めて把握しにくい、どう批判しても「いえ、こうも書いてます」と返せてしまうようになっているのではないか、という指摘もあった。  また、「慰安婦問題を単に『戦争』の問題として認識した」(211)に関しては、批判対象(そのような認識をもっていた者)が誰であるのか、心当たりがないという声もあった。  関連する指摘として、210ページの記述についても疑問が提示された。「日本軍と「人身売買」をリンクさせた運動のやり方は、結果として「業者」の問題を隠蔽することになった」という記述に対しては、人身売買に「業者」が関わっていたことは「慰安婦」支援に関わる人たちの間では当然のこととして認識されており、(責任の軽重という観点から)日本軍・政府の責任追及がまず目指されたにすぎない、という反論があった。また「様々なケースの女性の問題を『性』を媒介にすべて等しく扱ったために、朝鮮人慰安婦の特徴を消去し、欧米の『植民地支配』の影を消してしまった」については、なぜここで欧米の植民地支配という論点が出てくるのか理解に苦しむ、という意見が出た。  次に、被害者の意思、意見にまつわる問題について。著者は「被害者の意見」が一通りではないことを主張し、支援者は自分たちの活動に都合のいい「意見」ばかりをとりあげていると批判する(例えば165)。  これに対しては次のような意見が出た。確かに「被害者の本当の意見・意思とは何か?」は難しい問題であり、支援運動においても苦労・努力が重ねられたところであるが、それを支援運動体批判に利用しているように思える。名乗り出た韓国人「慰安婦」の証言の多くを支援団体が編纂した証言集に依拠していながら、支援団体がそうした「声」を隠蔽したとするのはフェアではないのではないか? と。  日本の支援運動に対する批判としては、「日本を変えるため」に利用した(307など)、「慰安婦問題の『運動』を天皇制批判へとつなげるようになる」(265)というものもある。これに対して、たしかに女性戦犯法廷は天皇を断罪したが、それは「反天皇制」を支援運動の究極の目標にしたということを意味せず、被害者の要求である「謝罪と賠償」を求めた結果であった。むしろ、支援者たちは人手・時間・資金などの制約から好むと好まざるとにかかわらず、「慰安婦問題」としてシングル・イシューで取り組まざるを得なかったのが実情であり、他の運動のために利用したというのは事実に反する、との反論があった。  左派批判の文脈で主張されている「冷戦的思考は基地を存続させる」(314)についても、そもそもここでの「冷戦的思考」が何を意味しているのかも含めて、理解が困難だという意見があった。南北対立が激化すればするほど(米軍)基地の存続は確固たるものになるはずだが、左派が主張しているのは南北対立の緩和だからである。また、日韓蜜月の冷戦時代には「慰安婦」問題は封印されていたことをどう考えているのかもよくわからない、と。  韓国の支援運動に対する批判の中には、支援団体の変化を無視したものが含まれている、という指摘もあった。例えば基地村での「米軍慰安婦」、ヴェトナムでの韓国軍の性暴力の問題には挺対協も取り組んでいるのに無視されており、同じくナビ基金(コンゴ内戦における性暴力被害者を支援する目的で、元「慰安婦」の意思を汲み挺対協が設立した基金)も無視されている、など。

(後半はこちら) (まとめ:能川 元一)
このエントリーをはてなブックマークに追加