2015年12月31日木曜日

日韓外相会談に関する、右派の声明・反応など

2015年12月28日に行われた、日韓外相会談に関する、日本の右派団体や言論人の声明、反応などを以下にリストします。(随時更新予定)

2015年12月30日水曜日

日韓外相会談に関する、元日本軍「慰安婦」支援団体による声明など

以下、2015年12月28日に行われた、日韓外相会談に関して、韓国、日本などの元日本軍慰安婦」支援団体、人権団体などによる声明を紹介します。(随時更新していきます。)
  • 挺身隊問題対策協議会 声明「日本軍「慰安婦」問題解決のための日韓外相会談合意に対する挺対協の立場(2015.12.28)
  • アムネスティ・韓国支部 緊急論評「両国政府の「慰安婦」の合意、サバイバーたちの正義を否定してはならない」(2015.12.28)
    日本語訳:第2次世界大戦当時、日本軍性奴隷制に関する韓国政府と日本政府の合意について、庄司洋加アムネスティインターナショナル東アジア調査官は、次のように明らかにした。

    「今日の合意に日本軍性奴隷制のために苦しんだ数万人の女性の正義実現に終止符を打ってはならない。ハルモニたちは交渉のテーブルから排除された。両国政府の今回の交渉は正義回復ではなく、責任を免れるための政治的取引であった。生存者の要求が、今回の交渉で安売りされてはならない。
    性奴隷制の生存者たちが、彼らに強行された犯罪について、日本政府から完全かつ全面的謝罪を受け取るまで正義回復に向けた戦いは続くだろう。」
  • 「ナヌムの家」安信権所長のコメント:「被害当事者が同意していない合意は話にならない」とした上で、「法的に違憲の可能性もあり、国際社会で認められないと思われる」(朝鮮日報12月29日)、「被害者を除外した韓日両政府の拙速な野合だ」(共同通信12月28日)
  • 日本軍「慰安婦」問題解決全国行動 声明「被害者不在の「妥結」は「解決」ではない」(2015.12.29)
  • 日本軍「慰安婦」問題に関する日韓外相会談に対する弁護士有志の声明(「前田朗Blog」に掲載されたもの)(2015.12.29)


  • 台湾・馬英九総統のコメント:「(台湾)政府の立場は一貫して日本政府に慰安婦への謝罪と賠償を求め、女性たちの尊厳を取り戻すことにある」(毎日新聞、12月29日)/林永楽外交部長のコメント:「正式な謝罪と賠償を求める立場は一貫している」「日本側が交渉と協議を行うよう強く求める」(産経新聞12月29日)





「上野千鶴子の「慰安婦」論——日本フェミニストによる相対主義の暴力」を受けての議論

  2015年11月30日に当会が開催した読書会では、李杏理氏(近現代史)による報告「上野千鶴子の「慰安婦」論——日本フェミニストによる相対主義の暴力」に続いて参加者による意見交換が行われた。主な議論を紹介する(以下、敬称略)。

1. 韓国のナショナリズム・運動批判について

  • 韓国でも上野千鶴子が朴裕河受け入れの土壌を作った?
李杏理が上野千鶴子による「慰安婦」論の特徴と朴裕河『帝国の慰安婦』に共通する点を挙げたのを受けて両者の関係に関する議論が行われた。韓国では、上野千鶴子の『ナショナリズムとジェンダー』が、日本で新版が出た2012年からそう間をおかない2014年に韓国語にも訳され、刊行されている。上野の著作にはナショナリズム批判が入っているから韓国でも日本でもフェミニストに受け入れられる要素があり、それがある種、朴裕河をも受け入れる土壌になっているのではないか、という問題提起がなされた。ナショナリズム(民族主義)の男性中心の言説によってフェミニストは苦しめられてきたことがあり、ナショナリズム批判という点では、フェミニストは共有できることがあるからとも指摘された。  だが、初期の段階では挺対協についても批判されるべき言説があったことも事実であるとはいえ、90年代の挺対協についてまで、上野が山下英愛の主張のみに依拠して、挺対協のナショナリズム批判をすることには疑問もある、という意見も出された。
  • 「加害国民」の視点を欠落させた韓国の運動批判
「キーセン観光」についても、『ナショナリズムとジェンダー』(旧版:pp.103-104)において、植民地責任が果たされていない段階で、しかも、日本人男性が買春観光に来るということが、被害者や被害者支援運動には「慰安婦」時代の記憶と重なって見える、という韓国と日本相互の背景を上野は捨象しているのではないかという意見も述べられた。  当時、韓国の女性運動がキーセン観光をどのように批判したかというと、「現代版挺身隊」と呼んだのであり、それは「慰安婦」の記憶が残る韓国独自の視点であった。当時は、日本人観光客の9割が日本人男性であり、日本人は団体のツアーで来るなど組織的でもある。そうした「慰安婦」問題と共通する「性の侵略」の問題とみなされていたのである。だが、上野は、そうしたキーセン観光への韓国での批判のまなざしの時代的文脈を無視して、他国と比較などと言っているのではないかと指摘された。
  さらに、上野は、実際に、民衆法廷(女性国際戦犯法廷)
などで「慰安婦」被害者の支援や「慰安婦」問題を広く社会に問う運動を牽引した松井やよりを評価せずに、単に1970年代のウーマン・リブ運動の中で「慰安婦」について早く語ったリブ運動や田中美津を評価しており、女性運動の評価という点で見るなら疑問がある、という意見も出された。
  • フェミニズム運動の歴史を捨象している
上野の著作では、「フェミニズムはナショナリズムを超えられるか」(旧:pp.194〜199)という問題設定を出しているにもかかわらず、ナショナリズムを超えたフェミニズムの運動を評価しようとしていないのではないかという意見も出た。高橋哲哉が『ナショナリズムと「慰安婦」問題』において、「アジアでもドイツでも性暴力の問題に取り組む女性たちの1970〜1980年代の活動」があったこと、そうした「『反性暴力』の国際ネットワーク」の活動が広く行われていたことが、1990年代に入り元「慰安婦」のカミングアウトを生む土壌となったことを評価している。一方上野は、そうした国際的なフェミニズム運動の連帯の歴史を捨象したまま、「フェミニズムはナショナリズムを超えられるか」という議論を韓国だけを議題にして行い、結論として「超えられない」とまとめているのは、フェミニズムの著作として疑問であるという指摘であった。
2. 議論の方法について
  • 主張が一貫しない
  上野千鶴子の『ナショナリズムとジェンダー』の議論を読み直して、かつてはこんなこと言っていたのに、今は(相反する)朴裕河を擁護していると思う部分がある。例えば、第二部「『従軍慰安婦』問題をめぐって」の「8.『対日協力』の闇」というところ(旧版:pp.132-134)では、「強制徴用が「日帝協力」なら、「慰安婦」も同じ論理で扱われる可能性があるだろうか」、「「慰安婦」犯罪の加害責任を問う動きは、犯罪者の訴追を要求しているが、それは韓国内の対日協力問題を暴くことで、いっそうの反日ナショナリズムを強める方向に動くのだろうか」と書いていたのに、現在は「「慰安婦」と同志的関係にある」という朴裕河の主張を支持している。この点は、かつての考えとは全く異なる主張へと変わっている、という意見も出た。  「「対日協力」という闇」(旧版: p.32〜)については、「「対日協力」という闇」が暴かれていないように述べているが、実際に真相究明などたくさん行われており、「闇」は暴かれており、また暴くことを抑圧していないにもかかわらず、上野はそうした事実を書かないで、「反日ナショナリズム」という、文脈から外れた議題設定を持ち出しているのは、非常に疑問が大きいという指摘が出された。  また、最近になって上野は、国民基金を批判してきたと言っている点でも、主張の軸がどんどん変わっていく印象があり、議論の軸が変わっていくため、反論もしづらいという意見も出た。
  • 文脈から浮き上がった議論
  上野は、問題を文脈から浮き出たように示し、多くの人をわかった気にさせる書き方をする傾向があり、その書き方が問題だと思うという指摘がなされた。しかし、真面目な研究者のものは、マスコミもあまり喜ばない現実がある一方、上野のような文脈から浮き出た(遊離している)ような書き方をする方がマスコミも喜び、どんどん読者も増えていくという面があるのではないかということも議論された。
 『ナショナリズムとジェンダー』も、「慰安婦」問題の文脈から離れており、浮き上がっているゆえに広く読まれた面があるのではないか、という問題提起もなされる一方、「言語論的転回」といった最新の学術用語を振りかけてもっともらしい言論に見せかけている面も指摘された。ただ、こうした文脈から浮き上がった議論については、批判は容易ではなく、かつ、丁寧な議論を要することもあり、なかなか多くの人には伝わっていきづらいのが課題であるという点についても、議論が行われた。
3. 相対主義・脱ナショナリズムにもとづく「慰安婦」論への批判の必要性
  最近、「慰安婦」問題が政治問題化している中、日本では、上野が依然影響力を持ち続けており、女性史研究などで、かつては共有されていた上野への批判が見えなくなっているという指摘も出された。最近、新たに多く刊行されている「慰安婦」関連本をみると、上野と同様に、(文脈を踏まえない)議論をする論者が出始めていることも話題になった。
  一方、韓国では、これまであまり注目されず、読まれてもいなかった朴裕河が読まれ始めているという指摘も出た。韓国語版では、日本語版で日本人のために入っている「言い訳」的な補足がない分、読みやすいということもあり、新鮮な視点として読まれているのではないかという主張もされた。とりわけ今年になって、起訴されたりして注目を集めているので、朴裕河への批判も重要だという意見も出た。
  娼婦差別、セックスワーカーに関する議論がやりづらい、やってこなかったことの弊害が出ているのではないかという意見も出された。  そもそも、韓国では、セオウル号、国定教科書etcと次々と大きな問題が起こり、「慰安婦」問題には、一般論で言えば、近年はそう大きな関心が寄せられて来なかったという指摘もなされ、それについての議論も行われた。
  結論として、上野千鶴子や朴裕河のような、相対主義・脱ナショナリズムにもとづく「慰安婦」論への批判は、丁寧に行っていく必要があるという認識が共有された。
 (まとめ:斉藤正美)

2015年12月14日月曜日

日本フェミニストによる相対主義の暴力

2015年11月30日、当会では上野千鶴子氏による「慰安婦」論について李杏理が報告した(「日本フェミニストによる相対主義の暴力」)。
 「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」(2015年11月26日)には、上野千鶴子、加納実紀代、加藤千香子、千田有紀、竹内栄美子ら(敬称略;以下同様)フェミニストも賛同人に名を連ねている。  この声明で言及されている朴裕河『帝国の慰安婦』の問題点は、すでに当会で議論してきた。  とくに上野千鶴子は、以前から朴裕河『和解のために』(平凡社、2006年)あとがきや新聞での評論を通じて朴裕河の議論を積極的に評価してきた。  なぜ、日本人フェミニストが朴裕河を擁護するのか。フェミニストによる相対主義・脱ナショナリズムにもとづく「慰安婦」論の陥穽を論じたい。  上野千鶴子による「慰安婦」論の特徴は次の3点に要約できる。それは、朴裕河『帝国の慰安婦』に共通する特徴である。
 ①「慰安婦」の存在は単一ではなく多様である(「文書史料中心主義」批判、「モデル被害者像」批判および「慰安婦=非公娼」論批判)  ②ナショナリズムを内包する思想と運動も、「慰安婦」問題の解決を阻んできた(挺対協や尹貞玉批判。家父長制パラダイムの特権化。国家責任論批判)  ③「慰安婦」問題は、日本だけの問題ではない(旧帝国間の共通性。基地村・朝鮮戦争下の「慰安婦」。国際法・国連勧告の軽視)
 ①について、上野は強制性をめぐる論争において「文書史料の不在を問題にするべきだ」と吉見義明を批判した。それに対し吉見は、上野が強制性や日本軍の「関与」を示す史料がないとしていることがそもそも誤りであると反論している(『ナショナリズムと「慰安婦」問題』、日本の戦争責任資料センター、2003年)。  また上野は、『ナショナリズムとジェンダー』(岩波書店、2012年新版)のなかで、ジェンダー・ヒストリーが打ち出した方法論を呈示し、歴史の「視角」こそが重要であるとする。だが、その立場に立つならば男性中心主義または官僚主義的な「視角」こそが問われるべきではないか。吉見が公文書を使っていることをもってジェンダー史に反しているとするのは形式主義であり、内容を問うていない。  そして「モデル被害者」像については、「売春パラダイムとの対抗を強調するあまり……「連行時に処女であり、完全にだまされもしくは暴力でもって拉致され、逃亡や自殺を図ったが阻止された」という「無垢な被害者」像を聞き手の側が作りあげているとする。「女性に純潔を要求する家父長制パラダイムの、それと予期せぬ共犯者になりかねない」と批判している(同上著)。これは、朴裕河も『帝国の慰安婦』で「私たちが望む慰安婦」の姿に過ぎない」とした。  しかし、金富子が指摘しているように朝鮮人「慰安婦」に未成年や「処女」が多かったのは事実であり(金富子「「植民地の慰安婦」こそが実態」文化センター・アリラン連続講座第6回、2015年10月17日レジュメ)、「少女」の被害者像は事実を反映している。また、支援団体はたとえ連行時に成年だったとしても、もと「売春女性」であっても被害者を受け入れてきたし、誰であれ「詐欺・暴行・脅迫・権力濫用、その他一切の強制手段によって」(婦女売買に関する国際条約)性行為を強要されてはならないことも指摘してきた。  さらに、上野は「慰安婦」を「軍隊性奴隷制」と捉えることについて、「「売春」パラダイムとの対抗を強調するあまり、被害者の「任意性」を極力否定しなければならない」。「ここでは「軍隊性奴隷」パラダイムは、韓国の反日ナショナリズムのために動員されている」(同上著)と述べる。  小野沢あかねや吉見義明も指摘しているように、公娼制度は事実上の性奴隷制度であったが、日本軍「慰安婦」制度には公娼制にあったような名目的な「廃業の自由」すらなかった。さらに、婦女売買に関する国際条約において、21歳未満を徴集してはならないとされたが、それが植民地女性には適用されなかったのだ。  なお、挺対協が戦争犯罪としての責任を日本政府が回避したことを批判する文脈において、公娼制度と軍「慰安婦」の違いを強調したことがあったが、それをもって日本人「慰安婦」が「自由意思」だったと認識「しかねない」とするのは論理飛躍である(山下英愛の議論を上野が引用)。  上野や朴の議論は、植民地女性が法の外に置かれていたことへの再審の必要性と犯罪性を問うてきた争点をぼかす役割を果たしている。  ②について、上野は『和解のために』あとがきで、「「国家による公式謝罪と補償」を唯一の解として、国家対国家、民族対民族の対立の構図がつくられたのは、一部は韓国内の女性団体のナショナリズムにも原因がある」とする。「国家による公式謝罪と補償」を「唯一の解」と極端に表現して否定し、争点をぼかすことで日本国がなした組織犯罪への処罰を困難にする。  また、韓国の「慰安婦」研究者である尹貞玉が、松井やよりを「民族に対する理解が足りない」と述べたことについて、「日本のフェミニストはそれぞれの思いと論理……を韓国のフェミニストと完全に共有することは可能でもないし、必要でもない」とする。  植民地女性が法外な被害を受けたことからもわかるように、日本軍「慰安婦」は民族とジェンダー両方にまつわる問題である。そこで尹が問うた「民族」とは何かという考察もなく、切り捨ててしまった。日本の主権者が日本のあり方について具体的に問われている関係性において線を引き、「相手がなぜそう言うのか」を思考することをやめてしまったのである。  なにより『和解のために』は、「慰安婦」の強制性を矮小化し、補償や謝罪は済んでいるかのように自民党・日本政府の見解を代弁して(金富子「「慰安婦」問題と脱植民地主義:歴史修正主義的な和解への抵抗」、『継続する植民地主義とジェンダー』、世織書房、2011年)、国家主導の「和解」を演出している。そして実際に、外交筋や保守論壇においても称賛を受けている(和喜多祐一「今後の日韓関係と歴史認識問題:歴史認識の壁はなぜ生ずるのか」『立法と調査』337号、2013年2月;久保田るり子「朴裕河氏の『和解のために』再読」『外交』外務省23号、2014年1月)。  朴裕河の議論は多くの事実誤認を含んでいるにもかかわらずそれを評価し、和解劇を補強した上野の責任が問われている。  ③について、高橋哲哉が「日本人」として「責任をとる」といったことについて、「帝国主義国家の「原罪」」と名指し、他国と比較することを説く。「例えばキーセン観光についても、アメリカ人やドイツ人の客もいたのに他の国籍の男にも同じよう批判を向けられただろうかと考える。従軍慰安婦運動の中にある韓国ナショナリズムの問題と、それに対する批判を封じて神聖不可侵にしていった日本の運動を見て、これでいいんだろうかという気持ちはありました」(上野千鶴子・加納美紀代「フェミニズムと暴力」、『リブという〈革命〉』、インパクト出版、2003年)。  ここでは、帝国諸国それぞれの罪を問うというよりも、「日本のみが悪い訳ではない」とする相対主義に陥っている。告発する側の「ナショナリズム」に問題があるということによってあたかも自らは普遍の側に、被害者の属する国は特殊の側に置く。  「日本人のフェミニストが日本国の構成員であるところの責任主体として、この「慰安婦」問題という具体的課題にいかに取り組み、それを思想的課題として、実践的課題として、いかに超えていくか」(金富子)という問いが等閑視されているのだ。  日本女性の戦争責任を問う「反省的女性史」について「絶対的な視点」や「戦後的な視点」と言って切り捨て、自らはただなに国民でもない無色透明な「女」であろうとすることは、国民主義の特権にあずかる自らの現実をも見えなくすることだ。 まとめ  日本リベラルにおける「慰安婦」論・朴裕河評価とそこからみる思想の頽廃とは、ナショナリズム批判という衣をかぶって告発者に責任をなすりつけ、日本の戦争犯罪をどう裁くかという問いをぼかすことにある。性被害という傷を世にさらけ出した「慰安婦」サバイバーの告発をうけて、真に過去の克服のためにつなげようとする運動がなされ、社会的な関心が芽生えた。その萌芽を上野千鶴子らはそれらしい言説に押し込めてしおれさせ、人びとに「慰安婦」当事者の声を聞けなくさせてしまった。そして「国家を超える女」といった普遍的な言説や相対主義によって日本の侵略責任・植民地支配責任を問わなくてすむような閾値の設定と現状追認がなされている。右派の否定論のみならず、リベラルによる被害の相対化によって「慰安婦」サバイバーはさらに葬られようとしているのだ。 (李杏理)