2015年12月30日水曜日

「上野千鶴子の「慰安婦」論——日本フェミニストによる相対主義の暴力」を受けての議論

  2015年11月30日に当会が開催した読書会では、李杏理氏(近現代史)による報告「上野千鶴子の「慰安婦」論——日本フェミニストによる相対主義の暴力」に続いて参加者による意見交換が行われた。主な議論を紹介する(以下、敬称略)。

1. 韓国のナショナリズム・運動批判について

  • 韓国でも上野千鶴子が朴裕河受け入れの土壌を作った?
李杏理が上野千鶴子による「慰安婦」論の特徴と朴裕河『帝国の慰安婦』に共通する点を挙げたのを受けて両者の関係に関する議論が行われた。韓国では、上野千鶴子の『ナショナリズムとジェンダー』が、日本で新版が出た2012年からそう間をおかない2014年に韓国語にも訳され、刊行されている。上野の著作にはナショナリズム批判が入っているから韓国でも日本でもフェミニストに受け入れられる要素があり、それがある種、朴裕河をも受け入れる土壌になっているのではないか、という問題提起がなされた。ナショナリズム(民族主義)の男性中心の言説によってフェミニストは苦しめられてきたことがあり、ナショナリズム批判という点では、フェミニストは共有できることがあるからとも指摘された。  だが、初期の段階では挺対協についても批判されるべき言説があったことも事実であるとはいえ、90年代の挺対協についてまで、上野が山下英愛の主張のみに依拠して、挺対協のナショナリズム批判をすることには疑問もある、という意見も出された。
  • 「加害国民」の視点を欠落させた韓国の運動批判
「キーセン観光」についても、『ナショナリズムとジェンダー』(旧版:pp.103-104)において、植民地責任が果たされていない段階で、しかも、日本人男性が買春観光に来るということが、被害者や被害者支援運動には「慰安婦」時代の記憶と重なって見える、という韓国と日本相互の背景を上野は捨象しているのではないかという意見も述べられた。  当時、韓国の女性運動がキーセン観光をどのように批判したかというと、「現代版挺身隊」と呼んだのであり、それは「慰安婦」の記憶が残る韓国独自の視点であった。当時は、日本人観光客の9割が日本人男性であり、日本人は団体のツアーで来るなど組織的でもある。そうした「慰安婦」問題と共通する「性の侵略」の問題とみなされていたのである。だが、上野は、そうしたキーセン観光への韓国での批判のまなざしの時代的文脈を無視して、他国と比較などと言っているのではないかと指摘された。
  さらに、上野は、実際に、民衆法廷(女性国際戦犯法廷)
などで「慰安婦」被害者の支援や「慰安婦」問題を広く社会に問う運動を牽引した松井やよりを評価せずに、単に1970年代のウーマン・リブ運動の中で「慰安婦」について早く語ったリブ運動や田中美津を評価しており、女性運動の評価という点で見るなら疑問がある、という意見も出された。
  • フェミニズム運動の歴史を捨象している
上野の著作では、「フェミニズムはナショナリズムを超えられるか」(旧:pp.194〜199)という問題設定を出しているにもかかわらず、ナショナリズムを超えたフェミニズムの運動を評価しようとしていないのではないかという意見も出た。高橋哲哉が『ナショナリズムと「慰安婦」問題』において、「アジアでもドイツでも性暴力の問題に取り組む女性たちの1970〜1980年代の活動」があったこと、そうした「『反性暴力』の国際ネットワーク」の活動が広く行われていたことが、1990年代に入り元「慰安婦」のカミングアウトを生む土壌となったことを評価している。一方上野は、そうした国際的なフェミニズム運動の連帯の歴史を捨象したまま、「フェミニズムはナショナリズムを超えられるか」という議論を韓国だけを議題にして行い、結論として「超えられない」とまとめているのは、フェミニズムの著作として疑問であるという指摘であった。
2. 議論の方法について
  • 主張が一貫しない
  上野千鶴子の『ナショナリズムとジェンダー』の議論を読み直して、かつてはこんなこと言っていたのに、今は(相反する)朴裕河を擁護していると思う部分がある。例えば、第二部「『従軍慰安婦』問題をめぐって」の「8.『対日協力』の闇」というところ(旧版:pp.132-134)では、「強制徴用が「日帝協力」なら、「慰安婦」も同じ論理で扱われる可能性があるだろうか」、「「慰安婦」犯罪の加害責任を問う動きは、犯罪者の訴追を要求しているが、それは韓国内の対日協力問題を暴くことで、いっそうの反日ナショナリズムを強める方向に動くのだろうか」と書いていたのに、現在は「「慰安婦」と同志的関係にある」という朴裕河の主張を支持している。この点は、かつての考えとは全く異なる主張へと変わっている、という意見も出た。  「「対日協力」という闇」(旧版: p.32〜)については、「「対日協力」という闇」が暴かれていないように述べているが、実際に真相究明などたくさん行われており、「闇」は暴かれており、また暴くことを抑圧していないにもかかわらず、上野はそうした事実を書かないで、「反日ナショナリズム」という、文脈から外れた議題設定を持ち出しているのは、非常に疑問が大きいという指摘が出された。  また、最近になって上野は、国民基金を批判してきたと言っている点でも、主張の軸がどんどん変わっていく印象があり、議論の軸が変わっていくため、反論もしづらいという意見も出た。
  • 文脈から浮き上がった議論
  上野は、問題を文脈から浮き出たように示し、多くの人をわかった気にさせる書き方をする傾向があり、その書き方が問題だと思うという指摘がなされた。しかし、真面目な研究者のものは、マスコミもあまり喜ばない現実がある一方、上野のような文脈から浮き出た(遊離している)ような書き方をする方がマスコミも喜び、どんどん読者も増えていくという面があるのではないかということも議論された。
 『ナショナリズムとジェンダー』も、「慰安婦」問題の文脈から離れており、浮き上がっているゆえに広く読まれた面があるのではないか、という問題提起もなされる一方、「言語論的転回」といった最新の学術用語を振りかけてもっともらしい言論に見せかけている面も指摘された。ただ、こうした文脈から浮き上がった議論については、批判は容易ではなく、かつ、丁寧な議論を要することもあり、なかなか多くの人には伝わっていきづらいのが課題であるという点についても、議論が行われた。
3. 相対主義・脱ナショナリズムにもとづく「慰安婦」論への批判の必要性
  最近、「慰安婦」問題が政治問題化している中、日本では、上野が依然影響力を持ち続けており、女性史研究などで、かつては共有されていた上野への批判が見えなくなっているという指摘も出された。最近、新たに多く刊行されている「慰安婦」関連本をみると、上野と同様に、(文脈を踏まえない)議論をする論者が出始めていることも話題になった。
  一方、韓国では、これまであまり注目されず、読まれてもいなかった朴裕河が読まれ始めているという指摘も出た。韓国語版では、日本語版で日本人のために入っている「言い訳」的な補足がない分、読みやすいということもあり、新鮮な視点として読まれているのではないかという主張もされた。とりわけ今年になって、起訴されたりして注目を集めているので、朴裕河への批判も重要だという意見も出た。
  娼婦差別、セックスワーカーに関する議論がやりづらい、やってこなかったことの弊害が出ているのではないかという意見も出された。  そもそも、韓国では、セオウル号、国定教科書etcと次々と大きな問題が起こり、「慰安婦」問題には、一般論で言えば、近年はそう大きな関心が寄せられて来なかったという指摘もなされ、それについての議論も行われた。
  結論として、上野千鶴子や朴裕河のような、相対主義・脱ナショナリズムにもとづく「慰安婦」論への批判は、丁寧に行っていく必要があるという認識が共有された。
 (まとめ:斉藤正美)

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