2015年1月31日土曜日

熊谷奈緒子『慰安婦問題』についての補足:先行研究の扱い方における不備について

本稿は「読書会のまとめ」に対する能川元一による補足です。

 新書という媒体で出版された本書は日本軍「慰安婦」問題について詳しい知識を持たない、一般の読者を主な読者層として想定していると考えられるが、ならばこそ河野談話(1993年)発表以降の研究成果については幅広く目配りをして、読者に日本軍「慰安所」制度についてのより正確な歴史記述を提供することが期待される。『朝日新聞』が「慰安婦」問題報道の一部を撤回したことなどをきっかけに新たにこの問題に関心を持った読者が、2014年に刊行された本書で最新の知見が紹介されていることを期待するのは当然であろう。しかしながら、極めて重要な先行研究のいくつかが本書では完全に無視されてしまっている。
 その代表的なケースとして、永井和・京都大学教授の業績が無視されていることに由来する問題点を指摘しておきたい[i]。 日本軍「慰安所」制度とドイツ軍の軍管理売春制度とを比較した箇所で、同書は秦郁彦の「日本軍の慰安所関与は、輸送関係以外では出先部隊の低いレベルで決定が下され(……)」という主張を紹介している(61ページ)。その直後に広範な範囲に及ぶ「陸軍省、海軍省の関与」を主張する吉見義明の主張も紹介されてはいるものの、「出先部隊」の決定という見解が“諸説の一つ”としてなお有効であるかのように読者は受けとめるであろう。しかしながら永井和が発見した陸達四八号「野戦酒保規定改正に関する件」[ii]は、1937年9月という日中戦争勃発から間もない時点で、軍「慰安所」の設置のために必要な規則改正を陸軍省が行っていたことを示している。同年12月には上海派遣軍の参謀たちが「慰安施設」「女郎屋」の設置を計画し開設に至っていたことは周知の通りである。また、2013年に発見された第35師団の「営外施設規定」[iii]は、「特殊慰安所」の設置根拠規定が他ならぬこの改正野戦酒保規定であったことを示している。もはや「日本軍の慰安所関与は、輸送関係以外では出先部隊の低いレベルで決定が下され(……)」という主張が成立する余地はないものと考えるべきであり、このような主張をことさら紹介することは読者をミスリードするだけであろう。
 また、1992年1月11日に『朝日新聞』が一面トップで発見を報じたことで知られる文書、陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第七四五号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」、通称「副官通牒」の解釈についても永井の業績は完全に無視されている。本書は副官通牒が「悪質な仲介業者を取り締まっていたこと」を示すとする右派の「善意の関与」論と、この文書の発見者たる吉見義明の主張とを併記し、「両者の着眼点と解釈の違いは明らか」だと結んでいる(140-141ページ)。しかしながら永井和は1996年12月に存在が明らかとなった警察資料に依拠して副官通牒を再解釈し、次のように結論している。

 この通牒〔警保局長通牒、内務省発警第五号〕は、一方において慰安婦の募集と渡航を容認しながら、軍すなわち国家と慰安所の関係についてはそれを隠蔽することを業者に義務づけた。この公認と隠蔽のダブル・スタンダードが警保局の方針であり、日本政府の方針であった。なぜなら、自らが「醜業」と呼んではばからないことがらに軍=国家が直接手を染めるのは、いかに軍事上の必要からとはいえ、軍=国家の体面にかかわる「恥ずかしい」ことであり、大っぴらにできないことだったからだ。(中略)
 副官通牒はこのような内務省警保局の方針を移牒された陸軍省が、警察の憂慮を出先軍司令部に伝えると共に、警察が打ち出した募集業者の規制方針、すなわち慰安所と軍=国家の関係の隠蔽化方針を、慰安婦募集の責任者ともいうべき軍司令部に周知徹底させるため発出した指示文書であり、軍の依頼を受けた業者は必ず最寄りの警察・憲兵隊と連絡を密にとった上で募集活動を行えとするところに、この通牒の眼目があるのであり、それによって業者の活動を警察の規制下におこうとしたのである。であるがゆえに、この通牒を「強制連行を業者がすることを禁じた文書」などとするのは、文書の性格を見誤った、誤りも甚だしい解釈と言わざるをえない。[iv]
 永井説に従えば吉見説も一定の修正を迫られることになる反面、「善意の関与」論については成立の余地がなくなるものと考えるべきであろう。管見の限りではこの永井説に対する「善意の関与」論主張者の実質的な反論は存在しないようである。もちろん本書の著者が「善意の関与」論をなお「諸説の一つ」として扱うことができると主張するのであれば、それも一つの立場として尊重されるべきかもしれないが、最低限永井説を考慮に入れたうえでの再検討が必要なはずである。永井説は「善意の関与」論が主張され始めた当時には発見されていなかった警察資料を参照しているという明らかなアドバンテージを有しているからである。
 先行研究が無視されている事例は他にもある。2007年に活性化した「慰安婦」問題に関する議論を紹介している箇所で、「保守」の主張を受けて「実際に狭義の意味での強制連行を示す文書がないからである」と述べている(139ページ)のもその一例である。一般に第一次安倍内閣は2007年に「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」とする答弁書を閣議決定した、と理解されている。しかし正確を期すならば、この答弁書が述べているのは「
同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」ということである(「同日」は河野談話が発表された93年8月5日を指す。下線は引用者)。そして河野談話発表以降も続けられた研究者や市民グループの調査により、「官憲が家に押し入って連行する」ような形態での「強制連行」を示す文書が、主に戦後の戦犯裁判資料から複数発見されているのである[v][vi]。
 注目すべきは、いずれの場合も河野談話発表以降の研究成果を無視することが(著者の言うところの)「保守」に有利な政治的効果を発揮している点である。「保守」と「リベラル」の主張を両論併記してみせる……これが本書において「客観性」を演出するための手法の一つである。しかし「保守」の日本軍「慰安婦」問題に関する言説は、「吉田清治証言」や「慰安婦と挺身隊の混同」といった90年代初めの話題に執着することで論点を「強制連行」に矮小化することを基本的な戦略としている。本書において河野談話(1993年)以降の重要な発見が無視されることにより、そうした「保守」の主張をもっともらしくみせることができているわけである。

(文責:能川 元一)

[i] 永井和、『日中戦争から世界戦争へ』(思文閣出版、2007年)の第五章「日中戦争と陸軍慰安所の創設」(「附 軍の後方施設としての軍慰安所」を含む)参照。なお第五章の初出は2000年であり、「見落とすのもやむを得ない」ような新しい研究成果とは到底言い難い。ほぼ同じ内容の論考が著者自身によってインターネットで公開されており、2007年以降は日本軍「慰安婦」問題に関心をもつインターネットユーザーの間では広く知られるようになっている。
[ii] アジア歴史資料センターでオンライン公開されている。リファレンスコードはC01001469500。
[iii] 歩兵第219連隊第7中隊の諸規定綴に含まれていたもので、アジア歴史資料センターではリファレンスコードC13010769700として公開されている。
[iv] 永井前掲書、427-428ページ。
[v] なお、いわゆる「スマラン事件」の裁判資料については河野談話の発表以前にすでにその存在と事件の内容が明らかとなっていた。
[vi] 河野談話発表以降に発掘された「慰安所」制度関連文書のリストが、『季刊 戦争責任研究』第83号(2014年冬季号)に「河野官房長官談話(1993年8月4日)後に発見された日本軍『慰安婦』関連公文書等資料」(第12回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議)として掲載されている。
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