1. オーラルヒストリーという方法論について
著者は、調査や研究の方法論を議論する際には、「現存する公文書のみが慰安婦制度の全体像を描けるとは考えることができない」(153)とし、それゆえに、「元慰安婦の証言」を重視する必要性を説く。さらに、公式に残された文書は、歴史学において「公文書の書き手ではなかった女性や人種、民族的に抑圧されていた人々の声によって問い直されている」とオーラルヒストリーの重要性を指摘する(153)[i]。確かに、「慰安婦」問題については、文献から歴史を調べて行こうとしても、敗戦時、文書資料が焼却されたりしてほとんど文書が残っていないことが多いことや、元「慰安婦」にされた人たちの声は公文書には載っていないために、「慰安婦」をはじめ関係者の語りが非常に重要であるという主張は、まったく正しい。
しかしながら、その理念が本書では実践されているのかというと、どうもそうではない。その点を残念に思う。
240頁ある本書の大半は、「慰安婦」をめぐって、今何が起きているか、という「慰安婦問題」を扱っている。オーラルヒストリーという方法を用いる意義は、著者自身、元「慰安婦」をはじめとする「抑圧されていた人々の声」(153)を表に出すことにあるという。だが、著者によれば、現在「慰安婦問題」の争点は、「強制連行があったか、なかったか」であるとし、よって「慰安婦」に「どこまで自由意志があったのか」が論点であると設定されている。本書は、被害回復を求めている元「慰安婦」女性の思いとはそもそも乖離が甚だしい。当然ながら、元「慰安婦」の語りは本書では、ほとんど活かされていない。
具体的な「慰安婦」の募集方法や「慰安婦」に給料、行動の自由、束縛の程度などについて論じる箇所であっても、当事者女性の証言の引用は見られない。元「慰安婦」の証言が引用される箇所もないではないが、具体的な名前が書かれることはない。
「アジア女性基金」についての50頁に及ぶ記述のほとんどを、被害者支援運動を批判する大沼保昭や政治家の書などに依拠している点でも、本書は、元「慰安婦」やその支援者の声を軽視する路線と言わざるを得ない[ii]。
参考文献リストも同様に、女性国際戦犯法廷についての資料を若干載せているが、各国の元「慰安婦」当事者の声を拾ってきた数多くある書籍や、裁判資料、「元慰安婦」を支援する会のミニコミなど当事者の声が掲載されているものはごくわずかにとどまる。
著者は、「特定の立場によらない、真の和解を目指して」(帯の文章)を掲げるが、実際には、著者が本書で誰の発言を引用し、文献として参照しているかをみれば、「一次史料に当たらず、当事者や支援団体の声を尊重しない」という「特定の立場」に依拠しているように見える。
「抑圧された人々の声」を活かす考えだという本書が、「慰安婦」の声を軽視しているのは、至極残念である。次には、オーラル・ヒストリーを活かすという理念を最大限に貫く意欲的な著作を期待したい。
2. フェミニズムの成果の簒奪に見える
本書のねらいは、「民族主義、ポストコロニアリズムとフェミニズムの三つを重ね合わせる多面的な理解の必要性を訴え、冷静な議論のための視点を提供する」(カバー見返し)にあるという。だが、具体的に「慰安婦」問題を論ずる記述を見ると、著者がどのようなフェミニズムに依って立っているのか、わからなくなる。
例えば、「慰安婦は兵士よりもよっぽど稼いでいたという指摘もある」や「問題は募集において、日本軍が直接関わった『強制連行』があったか否か、また管理においてどれほど強制的であったか否か、である」という著者の主張は、フェミニズムの主張というより、産経新聞や読売新聞(さらに言うなら、多くの保守派)の主張に添ったものである。
本書では、被害者女性や被害者を支えてきた支援者団体などフェミニズム視点からすれば真っ先に挙げてしかるべき運動の当事者や支援団体の声が軽視されている[iv]。日本国内の女性運動については、女性運動の主だった担い手に全く言及しないのが特色である。被害者支援団体は、「すべての元慰安婦の声を汲みとれていたとはいえない」「支援者団体も被害者の声の多様性を十分に反映できるような環境と政策を準備すべきであった」という批判対象として登場する。
女性国際戦犯法廷を評価する箇所でも、パトリシア・セラーズなど検事や判事、尹貞玉など海外の関係女性の名前を入れるにもかかわらず、法廷を実現させるのに最大の貢献者の一人であった松井やよりの名は一切入れないという徹底ぶりである[v]。これが一体女性の権利を擁護する「フェミニズム」なのであろうか。
第四章「アジア女性基金は道義的責任を果たしたのか」においても、そのスタンスは変わらない。被害者の支援者団体の見解は否定的にしかとりあげず、「女性のためのアジア平和国民基金(略称:アジア女性基金)」の呼びかけ人で理事であり、韓国および日本の支援団体を強く非難する大沼保昭氏の主張に添った形で、その顛末をまとめている[vi]。
だが、著者も参考文献にあげている鈴木裕子は、アジア女性基金が「国家補償はできない」との加害国日本の都合でつくられた日本政府のための法律で、それを承知で被害者側にのませようとするところに誤りと無理があった」とする。実際「なりふり構わぬ暴力的な受け取らせ工作」が横行し、「被害者や支援者に深い亀裂・分断・不信・葛藤を生じさせ、いまもそのトラウマに苦しむ人も多い」と述べられている(鈴木2002:277)。著者は、こうした女性運動の語りや文献を引用することは全くない[vii]。
第五章「性暴力問題のパラダイム転換——動議とフェミニズムによる挑戦」では、フェミニズムによる挑戦というタイトルとは裏腹に、被害者支援運動については否定的な記述が顕著であった。
国際的なジェンダー正義を求める動きを一般論として紹介する一方、国際的なジェンダー正義として求められている、責任者の処罰や真相究明・事実確認、謝罪・賠償、歴史教育・人権教育などについては、まったく触れていない。単に、韓国が日本に「誠意ある謝罪」を求めるといった、日韓問題であるかのような扱いにとどめている。
先に述べたように、「元慰安婦の証言・体験を人種・国籍・性別を問わずより多くの人がまず知るべきである」(227)というにもかかわらず、具体的な証言や証言をした人の名をほとんど示していない。よく知られているように、当事者の語りを重視する立場こそがフェミニズムの依って立つところである。こうした点から、本書はフェミニズムを簒奪していることになると思った。次なる著作では、著者が理念としてもつフェミニズムを実践的にも活かしたものとなることを強く願うものである。
(文責:斉藤正美)
(文責:斉藤正美)
参考文献:
・鈴木裕子2002『天皇制・「慰安婦」・フェミニズム』インパクト出版会
・鈴木裕子2013「『国民基金』と反対運動の歴史的経緯」『「慰安婦」バッシングを超えて』大月書店、107−124
・金富子2013「『国民基金』の失敗ー日本政府の法的責任と植民地主義」『「慰安婦」バッシングを超えて』大月書店、68−85
・尹美香2013「韓国挺対協運動と被害女性」『「慰安婦」バッシングを超えて』大月書店、86−106
・梁澄子2013「慰安婦問題の解決に何が必要かー被害者の声から考える」『「慰安婦」バッシングを超えて』大月書店、183−197
・尹貞玉2003「『女性国際戦犯法廷』を共に創って」『女たちの21世紀』34号:39−41、2003年5月
[i] 「オーラルヒストリーは重要であるという指摘も近年とくにある」の根拠が、雑誌『世界』の別テーマの記事(坂本・池1999)である。
[ii] さらに、「元慰安婦の支援団体」の「声は戦後補償裁判を準備・開始し、国家補償を声高に求めるよく組織されたグループのものであった」という記述も見られるが、「よく組織されたグループ」とは何を含意しているのだろうか。
[iii]著者は、また、中西・上野(2003)を引きつつ、専門家や知識のあるエリートのパターナリズム(温情的庇護主義)に代わり、いわゆる社会的弱者の「当事者主権」という考えが、「慰安婦問題取り組みに携わるすべての関係者に必要とされる」(158)とも論じている。
[iv] 参考文献を参照されたい。
[v]法廷を企画し、それを実行するまで血のにじむ思いで取り組んだ松井やより氏をはじめとする「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)のことは、一九九八年に「第五回「慰安婦」問題アジア連帯会議で提案し、参加NGOや被害各国から熱心に支持された。このことが女性国際戦犯法廷の出発点となった」と単なる提案団体であるかのような扱いにとどめているが、この法廷は松井やよりの発案であり、彼女の類い希な情熱とエネルギーなしに実現不可能な事業であった。たとえば、そのことについて、法廷を創ってきた人として著者も唯一個人名を挙げている尹貞玉は、「『女性国際戦犯法廷』は彼女(松井やより)のアイディアで、それはある朝、電球に光がパッとつくように頭の中にひらめいたのだ」(尹2003:39)と別のところで述べており、法廷が松井やよりの力に追うところが大きいことを証言している。
[vi]鈴木(2013)には、支援者団体の側に立った別の歴史的経緯が描かれているので参照されたい。
[vii] さらに、挺対協がおこなってきた、被害者同士の共感活動を通じた治癒活動や経済的支援などの被害者支援運動については、尹(2013)に詳しい。