2017年9月3日日曜日

『対話のために』読書会報告 その2

 『対話のために 「帝国の慰安婦」という問いをひらく』(浅野豊美・小倉紀蔵・西成彦編著、クレイン)所収、小倉紀蔵氏の「慰安婦問題における人間と歴史」については能川元一が報告を行った。以下、報告内容を再構成したうえでその中心的な部分を記す。
 著者は『帝国の慰安婦』をめぐる議論の枠組みをまず (a) その内容を『新しい」と認識するかどうか (b) 『帝国の慰安婦』ないし朴裕河氏を評価・擁護するか批判するか、という2つの軸の組み合わせ(=4通り)で整理し、そのうえで「批判側の重要な論点」として「論証方法における重大な欠陥」や「資料の引用などに根本的な恣意性」があるから「学術的認識とはいえない」というものがある、と5つ目の枠組みをあげている。報告者によるものを含む『帝国の慰安婦』批判論は実際、この5つ目の点に注力していたのであり、それを「批判側の重要な論点」だとする小倉氏の指摘は建設的な議論への期待を抱かせてくれる(以上、276〜278ページ)。  だが、この期待は直ちに裏切られる。なぜなら小倉氏は「この批判に応答できるのは朴裕河氏本人だけであろう」(279ページ)、「擁護側の多くの人(わたしを含めて)は、歴史学を専門としておらず、慰安婦問題の専門家でもない」(280ページ)として、この論点についての議論を放棄してしまうからである。  しかし『帝国の慰安婦』批判論が指摘した問題点の多くは、その当否を論じるうえで「植民地時代の朝鮮で起こったことを学問的に高い水準で、しかもマクロとミクロの両方のレベルにおいて理解できている」(280ページ)ことを必要とするものではなかった。また、個々の研究者の知見や能力に限界があるのは小倉氏が指摘する通りであるが、だからこそ研究者の共同体が新しく提起された議論(この場合は『帝国の慰安婦』)について議論を重ね、学術的な認識の水準を高めてゆくことが求められるはずである。    さらに問題なのは、「学術的認識とはいえない」という批判の当否についての議論は放棄しておきながら、『帝国の慰安婦』の学術的な価値については小倉氏は判断を保留していない、という点である。批判派の主張については「性急かつ声高に(威嚇的なほど大声で!)糾弾」「いちじるしく冷静さと公正さを欠いた思考停止的態度」(以上、282〜283ページ)とされ、「客観的な評価を忌避してこれを排除しようという魔女狩り的な運動」が展開されている、とまで言われている(284ページ)。「学術的認識とはいえない」という批判の検証を頭から放棄している小倉氏が、なぜこのような判断を下せるのだろうか? 「客観的な評価を忌避」しているのはむしろ小倉氏の方なのではないか? 「歴史学を専門としておらず」という理由で具体的な批判への応答を拒む小倉氏が、歴史学の方法論については(『帝国の慰安婦』の「新しさ」を強調するために)強い批判を展開している(292〜296ページ)ことにも違和感を感じる。  小倉氏が「『帝国の慰安婦』のもっとも優れた論点」だとしているのは「構造的支配」という概念である(302ページ)。それが「支配と被支配の複雑な関係性を分析するときにきわめて重要な視点」(同所)だからだ、と。本章のおよそ4分の1がこの点についての議論に割かれており、小倉氏が「構造的支配」概念を重視していることがよくわかる。しかし植民地支配やアジア・太平洋戦争研究のこれまでの蓄積に照らしたとき、「構造的支配」という視点が「新しい」というのは大いに疑問である(報告後の討論においても参加者から同様の指摘があった)。さらに『帝国の慰安婦』における「構造』は「支配の複雑性」だけを意味するわけではなくむしろ「支配の単純性」を表していることが多い(306ページ)のだとすると、「構造」概念が同書において首尾一貫して用いられているかどうかが、まずは問われることになるのではないか。  なお『帝国の慰安婦』批判者が徹底的に匿名化されている、という本書全体の特徴は小倉氏についても当てはまる。第三者には文脈やニュアンスを検証しようがないエピソードはいくつも紹介されるのに、である。その結果であろうが、いわゆる「藁人形叩き」な主張も見られる。例えば小倉氏は「構造」概念の意義を『帝国の慰安婦』批判派が評価しないのはなぜか、という問いを立てて、次のように自答している。
 もうひとつは、法廷闘争および運動において有用ではないからである。(……)もし「構造」という概念のもとに、「日本の権力に追従して朝鮮人を過酷に支配したり虐待したりした親日派朝鮮人も、実は構造的な被害者だった」という言説が成立してしまうのでは、運動はできないのである。
しかし「慰安婦」問題へのバックラッシュを行っている右派が朝鮮人業者の加害者性を強調している現状を考えるなら、「親日派朝鮮人も、実は構造的な被害者だった」という言説が「運動」の邪魔になるという認識は、まったくあたらないのではないか。  本章において唯一、具体的な個人が名指されているのはニューヨーク韓国人父兄協会の共同会長である。そこで小倉氏は、オレグ・パホーモフ氏の議論を援用しつつ、現在の在米コリアンが採用している「承認」獲得戦略ゆえに、『帝国の慰安婦』が排除されねばならないのだ、と主張している。報告後の討論では、アメリカにおける「慰安婦」被害者追悼運動が在米コリアンだけではなくさまざまなアジア系市民の連帯によって行われていること、したがって在米コリアンの「承認」獲得戦略だけで分析することは疑問である、などの指摘が参加者からなされた。


(文責:能川 元一)


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