2015年4月5日日曜日

書評:秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(宋連玉)

 書評 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999)


                               宋 連玉 Song,Younok

はじめに
 『慰安婦と戦場の性』は、著者の秦郁彦氏によると「第二次大戦期のアジアばかりでなく、古代から現代に至るタテ軸と洋の東西にわたるヨコ軸を交差させての「慰安婦百科全書」をめざした」ものらしいが、慰安婦問題が日韓の政治・外交の懸案事項となっているおかげも被って16年たった今でも版を重ねている。

 帯文や表紙、あとがきといった目につきやすいところに踊るのは、この問題に関心を寄せる人々のイメージを操るような派手なキャッチコピーである。1999年版の表紙カバーには「慰安婦問題は嫌煙権論争に似ている。知的アプローチよりも情緒論、政治的思惑が先行して過熱気味の論争は今も続く」とあり、あとがきには、慰安婦問題が「突如として内外の耳目を衝動する大トピックに浮上した理由」として「この疑問に答える材料を私は持ち合わせていないが」としながら「少なくとも、往年の廃娼運動のように正義・人道を基調とする単純な動機から発したものではないようだ。おそらくは内外の反体制運動がかかえていた政治的課題にからむ、複合した思惑の産物であったろう」と結ぶ。
 あたかも、この問題を解決するために集まった人々が、正義や人道とは関係のない、「反体制運動」のために慰安婦問題を利用しているかのような書き方である。
 この著者の考え方は、2008年に文藝春秋社から出た『現代史の虚実―沖縄大江裁判 南京 慰安婦 フェミニズム 靖国』の帯文「マスコミが醸成し強要する扇動的な「歴史解釈」「空気」「同調圧力」に異議あり!」にもよく表れている。この書籍の本文(222p)には、「1990年代に大流行した「慰安婦」騒動」は「左翼運動家と大新聞のキャンペーンが発端」で、売春婦と同列では運動が盛り上がらず補償の対象にもならないので、「日本の官憲による強制連行」というイメージが創作された」と書かれているが、この著者が言わんとすることがここに凝縮されていると言えよう。 Ⅱ 目次から見る著者の狙い
第1章 慰安婦問題の「爆発」 第2章 公娼制下の日本 第3章 中国戦場と満州では 第4章 太平洋戦線では 第5章 諸外国に見る「戦場の性」 第6章 慰安婦たちの身の上話 第7章 吉田清治の詐話 第8章 禍根を残した河野談話 第9章 クマラスワミ旋風 第10章 アジア女性基金の功罪 第11章 環境条件と周辺事情
 目次の流れを見ると、慰安婦問題の浮上、公娼制と慰安婦制度、世界史にみる公娼制と慰安婦制度、被害者証言と加害者証言の分析、慰安婦問題を巡る政治的状況となっている。著者の専門である戦史研究にかかわるのは3章、4章であり、その前史である2章以外は慰安婦問題を解決する運動を批判する内容となっている。なぜかオランダ女性が強制連行されたスマラン慰安所については、3,4章に入れずに、第6章の被害女性の「身の上話」に一括している。
 最後の第12章は吉見・川田編著『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』への批判・反論として、7つの争点をQ&Aでまとめ、著者の見解を展開している。 Q1 「慰安婦」か「従軍慰安婦」か? Q2 女子挺身隊と慰安婦の混同 Q3 慰安婦の強制連行はあったか? Q4 慰安婦はどのように集められたか? Q5 慰安所の生活条件は過酷だったか? Q6 慰安婦は何人いたか? Q7 慰安婦の民族別構成は? Ⅲ 書評
1.秦の「慰安婦」を見る視点―貧困女性への蔑視
 まずこの著者がどんなまなざしを慰安婦被害女性に向けているのかを見てみよう。
 著者がこの書物をまとめたのは「冷静、虚心に彼女たちの生態を、それも等身大で捉えるべきだき季節が来ている」(表紙カバー)ので、事実と虚心に向き合うために「執筆に当っては、一切の情緒論や政策論を排した。個人的な感慨や提言も加えなかった」とする。
 著者の言う「生態」であるが、まず慰安婦の待遇は、戦時期に女性の取り分が25%から40%に上昇した吉原遊廓の公娼に比べてもはるかに厚遇されていたとする。また「ハイリスク・ハイリターン」を期待して戦地に赴いた慰安婦の実例として「3年足らずで2万余円の貯金をし、5千円を仕送りした」(183p、392p)という文玉珠のケースを取り上げる。慰安婦は、軍隊における公娼であり、公娼が国家公認と言ってもその責任は国家にではなく前借金で売った親や業者、女衒にあるのだと主張する。
 ここで言う業者とは自己資本による自由な商業活動を営む者ではなく、軍によって募集されたか認可された御用業者、受命業者を意味するのである。よって民間業者というのは、表現そのものが間違いであり、別の意図を持った政治用語と言える。1944年10月27日の『毎日新報』同年7月26日の『京城日報』紙上の「慰安婦」募集の求人広告も、時局柄、軍のお墨付きがなければ出せないものである。公娼制、慰安婦制度ともに国家による性管理でありながら、国(警察、軍隊)は常に関与していないポーズを取るのが近代以降の「文明的」常套手段である。ましてやアフリカの「奴隷狩り」のような暴力を行使するのは近代国家の経済効率からしてもそぐわない。暴力を行使せずとも女性を騙して集める方法は近代社会にはいくらでも存在する。
 さらに著者によれば、慰安婦の9割は生還し、民族別には「内地人」(日本人)4、現地人3、朝鮮人2、その他1の割合だと見積もる。しかしもっとも多い日本人女性の名乗りがないのは、「慰安婦」問題を解決しようとする運動が「内外の反体制運動がかかえていた政治的課題にからむ、複合した思惑の産物」であることを誰よりも敏感に感じとっていたからだと説明する。ここでは日本人「慰安婦」は運動団体の政治的魂胆を見抜く賢明な女性たちとして持ち上げられるが、著者自身の慰安婦だった「同胞」女性への同情は見られず、「苦界に身を沈めた」女性たちの自己責任を問うばかりである。
 著者は「女郎の身の上話」に騙されたかつての苦い経験から、慰安婦や公娼の証言に常に懐疑的である。戦争研究において実証性と中立性を堅持してきたと自負する著者は、彼女たちの悲惨な体験に容易に心を動かされない。フィリピンの慰安所開設に際し、生活の困っていた「その道の経験ある婦女子がわんさと応募」(197p)してきたことや、強制連行が認められているスマラン慰安所事件においても、その背景にある軍抑留所には「売春婦」が多く存在し、慰安所徴集における強制性を疑問視する。 このように著者は、「慰安婦」の強制性や性奴隷的な側面を相対化しようとするだけでなく、公娼制に対しても相対化しようとして、世界、とくに中国の例を持ち出す。すなわち「北京でもカラオケ屋とアンマ屋に偽装した売春業が繁昌、96年5月に北京市政府は1カ月で45の売春組織と1259人の売春婦を逮捕したが、潜在人口は1万人ぐらい」だとし、むしろ日本がすでに私娼システムへの完全移行を実現したと中国との差別化を図ろうとする(62p)。
 さらに第5章では、「軍隊用の慰安婦」が古代ギリシャにまで遡れるとし、現代に至ってはRAAからベトナムにおける韓国軍「慰安所」にまで言及する。要するに「慰安婦」制度は決して日本の近代軍隊の特殊な制度ではなく、戦場には普遍的に存在したものなのだと主張したいようだ。
 しかしながら長年戦史の研究者として多くの資料を渉猟してきた著者に、「慰安婦」の悲惨さが見えないはずはない。「マニラなど海軍占領地の至るところに慰安所と慰安婦が溢れた(134p)」「拉致まがいの徴集もあったにちがいない(137p)」「帰りたくても便が得られず、海没を恐れて残留する女性が少なくなかった」。「軍票で支払われるのが原則だったから(中略)敗戦と同時に紙屑と化してしまった」(121p)など。
 また第4章の「敗走する女群―ビルマ、比島」には「惨烈とはいえ、陸つづきのビルマはまだしもで、逃げ道がないフィリピンに慰安婦たちがなめた苦難は、より惨烈であった。厚生省の調査では60万人の守備兵のうち、50万人が戦死しているが、慰安婦たちの消息を示す統計は見当らない」(124p)とある。
 統計が見当たらないのに、民族比率や帰還率をどうやって弾き出したのか。またその数値が信頼に足るものなのか、疑わしい限りだ。時折しも秦氏がアメリカの教科書記述訂正を求める日本海外特派員協会での会見で、日本軍兵力を100万人と言ったそうだが、これに対し秦氏の歴史学者としての資質を問う声も飛び交った。
 戦地の女性たちの悲惨さと著者の公娼認識にはズレがあるが、これを解消すべく、秦氏は慰安婦は公娼だから国家的責任は問えないと言いつつ、アジア女性基金のような民間ベースの救済がもっともふさわしい(197p)と、条件的救済の必要性を認める、矛盾した発言をしているのである。 2.資料と証言に見る著者の非中立性
 著者の公文書への信頼は、国家へのそれとどうように絶大である。公文書に見られる政治的な力学を分析したり、疑うことなどはしない。林博史氏も『週刊 金曜日』(290号、1999年11月5日)にすでに指摘したように、秦氏の資料の扱いに恣意性が見られるとしたように、自説に有利なものは採用し、そうではない場合は無視する、といった取捨選択を行っている。
 例えば、禾 晴道『海軍特別警察隊―アンボン島BC級戦犯の手記』(1975太平出版社)は本書でも紹介されているが、禾がアンボン島での慰安婦集めは、現地の女性たちに強制と思わせない巧妙な強制だったと証言している個所などは引用されていない。 
 著者は、「慰安婦」に関する証言が国家としての体面や法的処理に関わるので検証するのだと言うが(177p)、「ハイリスク・ハイリターン」を期待した「慰安婦」の実例として採用する文玉珠証言は、秦氏の期待に副うものだったからか、額面通りに受け取っている。
 本書に頻出する「女郎の身の上話」という言葉だが、これ自体が貧困女性への偏見に満ちたものであり、どんな人生でも不幸で報われないものであれば、聞き手、年齢、その他の要因により、ある種の脚色は避けられないものだ。秦氏は名のり出た慰安婦の共通したパターンとして、「知力が低く、おだてに乗りやすい」ことを挙げ、<善意>のインタビュアーたちは、自分が聞きたい物語を聞き出すように、語りの図式を変形するという権力を、その聞き取りの現場において行使している」が、専門家である弁護士まで、その弊を抜け出せなかった(178p)としている。要するに、「慰安婦」証言は信じるに足りないということを主張するために、外堀まで埋めようとしているのだ。
 日本人慰安婦に関しては、「朝鮮人や他のアジア諸国の例と比較すると、記憶力や論理性は格段にすぐれている」(224p)としながらも、金文淑が聞き取った城田すず子の証言、すなわち碑を立てた動機が「日本が犯した醜い犯罪に対して自分に出来る謝罪をするため」については疑っている(226p)。
 証言に対する秦氏のバイアスが顕著に表れるのは、「慰安婦」と対極にある憲兵のそれである。あとがきに「憲兵には兵士から選抜された優秀者が多い。引き出し方にもよるが、優れた証言者が少なくない。それだけに、私の取材に対しては予期以上の熱心な協力を得ることができた」とあるが、人間は能力が高いからと言って誠実で正直とは言えず、逆にインタビュアーの期待に添うように、狡猾にストーリーを作る可能性も否めない。
 秦氏のずさんな資料扱いを批判するのは、林氏だけではない。『マスコミ市民』(99年10月) には秦氏が資料、写真を無断盗用したと批判する前田朗氏、南雲和夫氏の文章が掲載されている。   3.植民地期朝鮮に対する無知と偏見
 秦氏が本書を通じて異議を唱えたい矛先は、「慰安婦」問題に関わる運動や団体、大手新聞(朝日新聞を指す―ちなみに最新の帯文には「朝日新聞よ!真相はすべて本書に書かれていた!」とある)と並んで、朝鮮民族に向けられたものである。
 「女子に対しては、国民徴用令も、女子挺身勤労令も朝鮮半島では適用されなかったが、官斡旋の女子(勤労)挺身隊が内地に向かったこともあり、各種の流言が乱れ飛び、未婚女性の間にパニック的動揺が生まれたらしい」(367p)ことから、帝国日本の植民地政策、総動員体制下の労働力動員に朝鮮人が強い不信感を持っていたことを知るべきである。恐怖政治のもとでは、流言飛語が草の根の抵抗である。「「悪質なる流言」という表現がくり返し出てくるところから、総督府は一種の反日謀略ではないかと疑っていたようだ。それに朝鮮半島では未婚女子は戸外労働を忌避して家庭内にとどまる伝統があり(44年の就業率3割弱)(369p)」とあるが、前段部分は植民地における総督府政治の破たんを物語るものであり、後段は秦氏が朝鮮総督府の創出した植民地期の女性表象や言説を今もなお、そのまま継承していることを表している。
 日本人慰安婦が「朝鮮人や他のアジア諸国の例と比較すると、記憶力や論理性は格段にすぐれている」のは当然である。非識字とは、単に文字や言語に通じないだけで終わる話ではなく、記憶の構成や論理的能力にも影響するのである。帝国日本は、朝鮮女性への教育コストをかけない植民地経営をした結果であるが、詳しくは『「慰安婦」問題を/から考える』(岩波書店、2014年)に掲載された拙稿を参照していただきたい。
 秦氏の資料の読み替え、誤解、数字の不正確さについては、林博史氏の他に最近は永井和氏も加わって精緻に批判しているので、ここでは第2章の朝鮮の公娼制について述べてみたい。
    「総督府管轄下の公娼数は1940年末の9,580人から42年末に7,942人へ17%も激減」と(100p)とあるが、この数字は公娼ではなく、芸妓や酌婦といった、いわゆる私娼も含めたものである。秦氏からすると、公娼も私娼も同じ売春婦ということで同列に見なすところから来る間違いかも知れないが、日本「内地」や朝鮮では娼妓を公娼とみなした。
 また、41pの「朝鮮における公娼関係統計」では西暦が使われているが、原資料では元号で表記されている。これも秦氏がオリジナルの資料を見ないで、孫引きをしたまま、あたかも自分が直接資料に当たったかのように細工した馬脚が表れている。他にも元論文を読まないで引用論文を転用している部分もある。
 このような手抜きが数字の間違いに繋がったり、自分勝手な解釈を許したり、しているのだろう。自説に合う資料・証言を恣意的に選んでいるという批判は免れない。
 また秦氏は公娼制という言葉を時期や場所の違いに関係なく使用している。そのために公娼制が、明治初期から総動員体制期までどのように変化したのか、あるいは内地と朝鮮、台湾とではどのように異なっていたのか、違いを問題にしないまま、慰安婦制度と連結させている。同じ言葉を説明なく使うことで、公娼も「慰安婦」も社会に浮遊する偏見に満ちたイメージに安直に融合し、連結する。
 著者がエリート官僚出身であるとは信じられないほど、本書にはスラングやパワハラ的な表現が満載であるが、そのような言葉遣いが、既成の「慰安婦」のマイナス・イメージを補強する効果を果たしている。キャッチコピーの活用や、「慰安婦」問題の解決に奔走する人々を「左翼」「反体制運動」とレッテル張りをするところは、著者の「反共」日本の空気を読むしたたかさであろうか。
 敢えて本書の成果を挙げるとしたら、著者のエリート官僚としての経歴が「幸いして」元憲兵の証言を集めているところにあると言えようが、「慰安婦」証言と同様に検証を欠いてはいけない。
 本書が真に「慰安婦百科全書」になるためには、資料・証言・解釈の精緻な検証が全面的に必要となろう。また百科全書であっても、「慰安婦」被害者へ共苦するEQ(心の知能指数)とモラルが問われることはあらためて言うまでもない。
(文責:宋 連玉) このエントリーをはてなブックマークに追加