2016年6月21日火曜日

 去る2016年6月7日、「『国民基金』とはなんだったのか」をテーマとして研究会を開催した。2015年末の日韓「合意」に関する各種メディアの論説(リストは省略)を資料として踏まえつつ、改めて「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を考えなおそう、という趣旨である。永山聡子による冒頭の報告の要旨は以下の通り。



簡易版レジュメ

「慰安婦」問題を巡る報道を再検証する会 読書会

2016/06/7(火)
報告者:永山聡子
テーマ:「国民基金」とはなんだったのか

話題提供:12.28「合意」を受けて、再び検討するべき、「国民基金」。この両者を類似としてみる向きもあり、その考察も理解できる。その一方で、アジア女性基金は、一応・社会党党首 が首相であった時代であったことを考えると、今回の問題と同様と簡単には整理できない。そこで、戦後日本のリベラルが、なぜこのような結論(=国民基金)を出したのか、それについて流れを確認しながら、現代日本社会におけるリベラル(左派も入ってよいが)と言われる人々の、日本軍「慰安婦」問題への対応・バッシングについて考えたいと思う。
1.社会党の一人負け  1989 年参議院選挙と 1990 年総選挙の結果、社会主義研究会の解散し、五月会以来の伝統ある派閥であったが、協会問題が正面切って問題になる前後に三つに割れた。  日本新党は 39 名を獲得、新生党は 20 名増の 55 名、新党さきがけは3名増で 13 名であった。他、公明党は 6 増で 52 名、民社党も6増の 19 名であった。 大きく減ったのは選挙前の 137 名から 77 名へ、ほぼ半数の 60 名減となったのは社会党であった(1)。この結果、第5党の党首・細川を首相とする内閣が誕生した。

(1) 共産党は1名減、社民連が横ばい。
2.「補償」に対する宮沢内閣の見解  1992 年の7月、第一次調査報告書(「朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題について」)を出し、当時の加藤紘一官房長官は、元「慰安婦」の方々に「補償に代わる措置を講じたい」と言明し、1993 年8月第二次調査報告書(「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」)発表。
3.第2回アジア連帯会議と細川政権の見解
 自民党崩壊後の細川政権、羽田政権においても同様の政策が引き継がれた。 ・ 「生活支援募金」構想
構想:第3回連帯会議の3ヶ月前の7月に、「実施計画の確定」から始まり、1994 年 11 月事務局解散スケジュールも準備もされていた。 構想側:ところが、1994 年6月、7月にこの構想の存在が知れ渡り、日本側支援団体も反対をかかげ、当時の広中和歌子氏(当時公明党)、上野千鶴子氏らと話し合いを行った。その際に、 「コーヒー一杯節約すれば」といった表現を使用し、募金活動に日本市民が関わることによっ て、歴史の真実を知る機会になると発言している(鈴木 2013:26)。のちに上野(1998:224) は、『ナショナリズムとジェンダー』で「わたしは何人かの仲間たちと語らって、ひそかに生存 者の生活支援のための募金運動を NGO として組織する準備を進めてきた。あまりに多くの困難と障害のためにこのアイディアはついに実現しなかった」と振り返っている。 市民運動側:この構想では、被害者への真の謝罪・賠償にはならず、国家の犯罪を隠蔽し、 かつ募金運動では歴史の真実・歴史教育にはなり得ないとした。
4.村山政権と「見舞金」構想  1994 年6月(羽田内閣発足後1ヶ月)「従軍慰安婦問題に関する補償にかかわる措置」として「青少年交流基金」創設の構想が浮上し、戦後 50 年事業の柱になると報じられた(「アジアからの留学生支援 交流基金構想が浮上 対「慰安婦」措置政府計画」『日本経済新聞』1994年6 月6日付)。さらに、自民党・社会党・さきがけ3党の連立政権村山富市(社会党委員長)内閣 は、成立して1週間後のナポリ・サミットの直後 7 月7日、「補償」にかかわる措置として「ア ジア交流センター」措置の方針を固めたと報じている(『読売新聞』『朝日新聞』、NHK など)。  この構想を先述として8月中旬に「平和友好交流事業」「民間基金(見舞金)」構想が出る(『朝 日新聞』1994 年8月 13 日、19 日)。  村山氏は「一方、与党3党で構成する、戦後処理のプロジェクトのなかに慰安婦問題小委員会をつくって検討してもらった。小委員会での検討を見ますと、2つの意見が対立しているわけです。主として自民党や官僚の意見というのは、日本は戦後の責任はサンフランシスコ条約 と二国間条約ですべて解決している、いまさらくりかえしてやるなんてことはできない。あくまでもこれは解決済みの問題だという主張である。一方、いやそれでは済まない、「慰安婦」は 女性の尊厳を深く傷つけた問題で、解決済みと無視するわけにはいかない、国が責任を持って 補償すべき。とくに社会党—新党さきがけも一緒だと思いますけど、という主張があった。しかし、 これが対立して、結論が出なかったわけです。」(「これらかのアジアを考えるために」、『慰安婦問題への問い』、pp220~221)
5.「国民基金」の発足
  「見舞金」構想が明らかになると、日本側の多くの支援団体も、反対の声をあげた。1995 年2 月、ソウルの第3回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議が開催され、「見舞金」(韓国では「慰労金」)案撤回のために反対し、ILO への働きかけなどを行った。

6.評価(資料参照……省略)

関連資料

関連政権

第 82 代 橋本 龍太郎 1996.1.11~1996.11.7 第 81 代 村山 富市 1994.6.30~1996.1.11 第80代 羽田 孜 1994.4.28~1994.6.30 第 79 代 細川 護煕 1993. 8. 9~1994. 4.28 第 78 代 宮澤 喜一 1991.11. 5~1993. 8. 9

参考文献: 大沼 保昭,和田 春樹,下村 満子(1998)『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂 石川 真澄,山口 二郎(2010)『戦後政治史 第三版 (岩波新書)』岩波書店 木村 幹(2014)『日韓歴史認識問題とは何か (叢書・知を究める)』ミネルヴァ書房. 鈴木裕子(2002)『天皇制・「慰安婦」・フェミニズム』インパクト出版会. 鈴木裕子(2004)『フェミニズムと朝鮮』明石書店 鈴木裕子(2013)『日本軍「慰安婦」問題と国民基金』梨の木舎 曽我 祐次(2014)『多情仏心 わが日本社会党興亡史』社会評論社. 徐 京植(2010)『植民地主義の暴力―「ことばの檻」から』高文研. 鄭 栄桓(2016)『忘却のための「和解」―『帝国の慰安婦』と日本の責任』世織書房. 村山富市,和田春樹編集(2014) 『デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金』青灯社. 水野 均(2000)『検証 日本社会党はなぜ敗北したか―五五年体制下の安全保障論争を問う』並木 書房. 山口 二郎,石川 真澄 編集(2003)『日本社会党―戦後革新の思想と行動』日本経済評論社. 前田 朗(2016)『「慰安婦」問題・日韓「合意」を考える (彩流社ブックレット) 』彩流社. 前田朗 , 徐京植 , 今田真人 , 鈴木裕子 , 能川元一 , 早尾貴紀 , 金富子(2016)『「慰 安婦」問題の現在―「朴裕河現象」と知識人』彩流社. 和田 春樹 (著), 大沼 保昭 ,岸 俊光 (編集) (2007)『慰安婦問題という問い―東大ゼミで「人間 と歴史と社会」を考える』勁草書房.


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